山根製菓の始まり

1935年、私たちの創業者である山根正夫は、石川県の米生産地から東京に若い徒弟として移りました。彼は現在の目黒地域で山根商店という名前で米菓子を販売し始めました。ちょうどその頃、渋谷にハチ公の銅像が建てられました。当時、車は今ほど一般的ではなかったため、彼は手押し車で商品を販売しました。時には目黒から横浜まで旅行販売をすることもありました。 1937年以降、農産物の生産が減少し、日本の国内米消費の約四分の一が韓国や台湾からの輸入に頼っていたため、船舶や燃料が軍事目的に優先され、日本の家庭では米の不足が生じました。その時期には「穀物手帳」が必要でした。 そんな時代に、厚く焼かれた煎餅(おせんべい)がまだ主流でしたが、山根は薄く焼かれた煎餅の製造を始めました。その理由は、米を薄く広げることで、厚く焼かれた煎餅よりも多くの個数を作ることができるからだと言われています。 戦後、日本は急速な経済成長期に入り、エネルギーに満ちた時代であり、新しいものを次々に取り入れていました。バブル経済が出現した際には、物質的な富が増え、米菓子業界も積極的に海外に輸出していたようです。薄く焼かれた煎餅も一時期人気を呼びました。多くの企業が薄く焼かれた煎餅の製造を始め、私たちの会社も早くから始めたことで、リーディングな優位性を得ることができました。 1990年代にはバブルが崩壊し、コスト削減の波が全ての企業に広がりました。それがデフレの始まりでした。米菓子業界では、薄く焼くことには破損のリスクが多く存在しました。多くの企業が製造していましたが、破損による損失のためにほぼ全てが撤退しました。当時はまだ贈答の習慣が多くあり、「壊れたもの」は不吉とされていました。(現在では、意図的に壊して商品にする企業もありますが、複雑な感じです) それから30年以上が経ち、関東地方では私たちを含めてわずかな企業しか残っていません。全国的にも多くはないと思います。難しい焼成プロセスに注意を払い、煎餅を焦がさずに焼くために、薄くサクサクとした伝統的な味わいは今でも多くの人々に愛されています。